昭和41年06月08日 夜の御理解



 私はある人に、金光様のご信心とは、どういう様な信心か。どういう様なおかげが受けられるかと言った様な、質問とお届けがあった時に、福寿海無量と、もう限りのないおかげがいただける道だと。そしてその事を私は、私自身がおかげを受けて、ここに参ってくる信者に見てもらったり、聞いてもらったりしているんですよと言うて。手本があるんですからね。もう実際にここに、生き手本があるのですから、皆んながいわば勉強がし良い。まそんなことを話したことがあるんですけれどもね。
 教祖の御理解の中にも、世界中の氏子におかげはやってあると。けれども氏子におかげの受けものが無ければ、受けものが悪ければおかげが漏れるぞと。只今それこそ人間の幸せになっていくための一切のもの。幸福にしなければおかないという一切のものが、私共に恵まれておるのだけれども、私共の心のいわゆる受けものが悪ければ、おかげは漏ってしまう。ね。お互いがそこのところを大事にしなければ。そして自分でそれを求めようとする。受けものもないのに求めようとする。
 いわゆる儲け出そうと思うたり、事を片付け様と思うたり、ね。自分の力でそれをなそうとするところに、間違いがあるのだ。皆さんもどうぞ、その一人ひとりがです、ね。金光様のご信心ちゃどういう信心か。どういうおかげの受けられる道かと、ね。とにかく福寿海無量。限りの無いおかげが限りなく、しかもそれが頂けていけれる道なんだ。しかもそういうおかげをです。確かに世界中の氏子に下さっておるんだ。ね。器量が良かろうが悪かろうが、ね。
 けれどもそれが氏子の心の受け物が悪いと、そのおかげも漏ってしまうのだと。ためには一つ徳を受けなければならん。十二分の徳を受けようと思えば、ままよという心になれよと。様々な時、ね。いわゆるそのままよという心。いわゆる信心度胸を作っていくための、稽古がなされなければならないと。ね。これなんですよね。こら私はまぁ現在受けておるおかげが、現在の皆さんが見てられる通りの事なんだけれども。それが私の信心の成長と同時に、限りなく広がっていくだろう。それは無尽蔵に。
 しかもこれでストップすることが無い。そういうおかげがここに、もうあるんだと。ここにあるのだと。それは自分の心でキャッチするのだ。そこでどういう心でキャッチすることが出来るかと言うところに、焦点を置いて信心の稽古をさせてもらうと。今私ここへ奉仕させて頂く前に、家内が私が着物を着よりましたら、手伝うてくれます。そしたら炊事場の方に、誰か一輪、あのアジサイの花を一本持ってきて、なかなか色のいい、良い花でしたから、私がそこの茶棚にしておるバラがしてあった。
 それがもう散りかけておったので取り替えた。そすと家内が言うんです。私はそのこのアジサイと言う花は、あんまり好きじゃないですとこういう訳なんです。そうだなぁやはり花の中にも、好き嫌いがある。確かにあった私もそうだった。ところがこの頃は私はですね、この嫌いな花と言うのが無くなった。いやむしろ今までは、花と花とも認めていなかったような花が、あぁ良い花だなぁと、この頃気付くようになった。例えて言うなら、あの、ランの花なんか、私は花と認めていなかった。
 ところがそのこの頃ランの花の清々しさに、この頃心ひかれる。夏の日にこうひまわりの花、葵の花、ね。それからカンナの花、ね。花は花であるけれども、あれを良いなぁとは一遍も思ったことが無かった。ところがもう私あのカンナとか、あのひまわりとかと言う様な花がですね、葵とかという花が、いいなぁ特に心惹かれるようになったのは、もうここ十年余りだろうと思うです、ね。誰だってあの菊の花やらね、ゆりの花やら、牡丹やら、バラやらという花を、嫌いとか嫌だとか言うものはないですけれど。
 それなら勿論、それがいけないのじゃない。しかし心惹かれるのは、今まで嫌いであったという様な花である。特にあの何ていうですかね、あのまんじゅしゃげ、ここでは彼岸花とも言う。もうあの花なんか私は嫌いな花だった。ところがこの頃あれが非常に好きになった。考えてみると、私の前の花の中にですね。嫌いな花と言うのが無くなった。私はこら人間でもそうだと思う。ね。もうあればっかりはもう虫がすかん。もの言おうごっでんなか。もうあればっかりはどうも私は好かん。
 やっぱりありますよね人間ですから。ね。こら好きになるとと惚れるというのは別なんです。もう誰にも彼にもそげん惚れよったら、大変ですからね。ですからまぁ惚れると好きになるというのとは違う。ね。ですから成程ありますよ、嫌いなタイプというのが。けどもだから私は一生懸命、好きになる精進をするです。不思議にそれが好きになるです。そこに私の心のなかにです、ね。好きな人ばっかりのなかにある世界が生まれるのです。私の世界が、それだけ広うなるのです。
 もう好かん奴が来よるけんでから、回り右しよるち言うごたる気持ちがする時がありよった。もうあれとはものでん言おうごとなか。ただそれが段々無くなってきた。たまにある。けどもそれを一生懸命に好きになる精進をする。もう私は本当にそのここにおると、それが分かるです。先生があの人ばあんまり好きなさらんばってんから、一生懸命精進しござるとばいなと思うようなことに、直面する事があるじゃないかと、私は思うくらい、私は一生懸命にそれに努めます。そすとそれが好きになるです。
 段々好きになってくる。ね。あれは好かんと言うものが一つでも、一言でもあったらそれだけ、私のいわば極楽の世界から、おかげの世界が狭うなるような訳なんですよ。ね。そこで皆さんここで、思うて見なければならないことをです。こんなものは好かん。例えば食べ物でもそうでしょうが。ね。あれは好かんこれは好かんといったら、もうそれだけ、自分のいわば食べる世界というのは少なくなる。何を食べても美味しいというところに、極楽があるのです。ね。
 ですから結局、そこに好きになる精進をさせて頂くと同時に、私が日頃に言うですね。これは不思議に、いわゆる神心のいわば成長だと思うですね。自分の心が神に向こうていくと言う事が信心。ために磨きもすれば改まりもすると。もうあれはふるふる好かんというのがです。もうあればっかりは好かんと言うのが、私の周囲に幾らもあるとするならです。私の心のいわゆるおかげの受けものが、そんなに狭いんだという事。いや狭いだけなら良いけれども、そういう神様の心に叶わない心からおかげが漏るんだと。
 世界中の氏子に、おかげはやったあるのだけれども、そう言う所からおかげが漏っておるんだという事なのだ。ね。だからもう嫌いな人ば、よってさるく事は要らん。自分の前に現れた嫌いな人。自分の前に現れた嫌な花、ね。それでもやはり天地との繋がりというか人間でいうなら、やはり神様が氏子としての取り扱いを、思い方をさせて頂くところにです。なるほど神様の氏子であるというものが通うて来る。ね。皆さんの周囲に嫌いなものが、段々一つ一つ、影を潜めていく稽古をなされなければいけん。
 それには精進がいると同時に、私の心のなかがいよいよ神心、ね。神様はむしろあんな氏子、いうならば屑の子ほど可愛いというのが、神心であると仰り親心だとも仰る。ね。人から爪はじきされるような子供が、自分の子供のなかにあったら、それが愛しいのが親なのだ。ね。ですから親心になり神心にならせて頂く時に、私の心の中から嫌いとか好くとかと言った様なものが、段々無くなって来るということがです、私のおかげの受け物が、大きくなるというだけではなくてです。
 おかげが世界中の氏子にやってあると言う、そのおかげをです、ね。キャッチすること、同時にそこから漏らさんで済む事になるのですから、実を言うたら大変な事。ね。同時に私の周囲からです。嫌いなものを一つ本当に無くしていこうという精進が、努力がなされていかなければならん。同時に私の心がいよいよ、神心になっていくところにです、ね。人が好かんと言うのに、あの人はあんなに良いところがあるのに。あの人にもあんなに素晴らしいところがあるのにと言う様に。
 その素新銀晴らしい所を発見することが出来る。そこに私は福寿海無量、ね。福とか寿とかいうのは、それこそ海のように限りなく広く、多くあるのだということ。そこを教祖の神様はですね。世界中の氏子に、おかげはやってあると仰っておられる。しかもそのおかげと言うのは人間が幸せになっていけれる、一切のものが与えてあると仰る。それが与えられずにしんぎんしておる、苦しんでおる、ね。自分の心を見つめてみるが良い。成程そういうおかげをキャッチする、何ものも心の中に持たないもの。
 神心がないもの。一つも嫌いなものを好きになる精進をしよらんのだもん。嫌いなものは嫌い、好きなものは好き。こういうはっきりした人はもう、おかげもそういう様なことになってしまう。ね。どうぞ一つ皆さんの周囲から、皆さんの心の中から好きとか、嫌いとかと言うものがです、ね。いや嫌いだ嫌だというものがです、無くなって参りまして、いやむしろ私は今まで嫌いであったというものが好きになる。これはもう実に不思議な事です。もう実に不思議な事なんです。ね。
 嫌いだった花が好きになるのですから。色なんかでもそうです。私はあのカーキ色なんかていうのは、色の中でも一番嫌いな色でした。所が現在では私がそれを精進する、努力する。所が私が椛目はもう、橙色が一番先生の好きな色と、皆んなが言われるように、本当に一番好きな色になってるです。なら今まで好きな色だったが、嫌いになったというわけではない。ね。不思議な事なんですよ。ね。それが自分のそういう心の精進がなされなければ。神心に向かうごと、楽しみの信心させて頂かなければです、ね。
 好かんものは好かんと一言に、その言うてしまわなければならんようになってくる。好かんものは好かん。それがその性根がおかげの受けられない元なんだ。ね。そこからおかげが受けられんだけなら良いばってん。頂いておるおかげまで、そこから漏れてしまうような事になるのだ。ね。どうぞ皆さんの心の中から、嫌いなものがなくなっていく、その稽古と同時に、好きになる精進。それはどこまでも、私が神心を目指しての信心にならなければならないという事なんですね。
   どうぞ。